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装身具の復活(戦国時代から平成までの装身具の歴史)

南蛮貿易の時代

 

装身具が消滅していた時代にも、装身具を使用していた人達はいました。

 

16世紀に南蛮貿易が始まると、キリスト教の布教と連動して異国情緒あふれるヨーロッパの文化に触れた人々によって、装身具が使われていました。

 

主に西日本のキリシタン大名とその関連人物です。

 

イタリアで描かれた天正遣欧少年使節の四人の少年の肖像がではローマ教皇グレゴリウス一三世から下賜された帽子や王冠を持っているほか、伊達政宗の家臣の支倉常長が指輪を付けていました。

 

しかし、豊臣秀吉のバテレン追放令や江戸幕府のキリスト教禁止令などキリスト教が禁制化された結果そのような装身具が一般に普及することはありませんでした。

 

江戸文化

 

江戸時代になると南蛮貿易で日本に入ってきた装身具は鎖国政策などの影響で次第に途絶えて、一部の蘭学者のみがもてはやしている状態でした。

 

その後日本独自の装飾品小物が発達してきます。根付、櫛、髪飾り、帯止め、印籠、たばこ入れなどです。

 

職人達は自分の腕を競い合い、待ちの実力者達は金に糸目を付けませんでした。

 

ただし、天保時代に奢侈禁止令が出されたことから、表だって豪華な物は作れなくなったので、うまく目立たせないようにするようになりました。

 

幕末になるとそのような日本独自の装飾品も衰退してきます。

 

むしろ西洋から入ってきた文化によってジュエリー復活の兆しが見えてきました。長崎を中心に西洋文化の影響で影響で指輪などが日本に入ってたからです。

 

その結果、長州藩で毛利指輪など国産の装身具が作られるようになってきました。

 

明治・大正時代

 

明治時代になると、江戸時代に生き残った金銀細工師の伝統技術を生かして西洋からの輸入品を見よう見まねして、装身具作りが始まりました。

 

鹿鳴館時代に有閑階級にジュエリーが普及したため、明治、大正時代は主に支配階級のためのジュエリー作りが主流でした。

 

なぜ明治以降、装身具は復活したのでしょうか。その理由についても、「富や社会的ステータス」や「おしゃれの表現」など色々ありますが、一番大きな理由は西洋文化へのあこがれでは無いかと思われます。

 

昭和

 

戦争中は「贅沢は敵だ」とされ装身具は制限されてきました。

 

しかし、終戦後速くも女性達はジュエリーを付け始めました。

 

女性の装飾意欲の高さを示していますが、装身具消滅時代がなおさら不思議に思えてきます。

 

昭和三〇年代くらいから洋装装身具を意味するアクセサリーという用語が装身具に変わって使われ始めました。

 

当時の装身具は平和な時代の心の贅沢だと言えます。

 

昭和三五年頃から日本は宝飾品の時代に突入します。ちょうど高度成長期にあたります。

 

マスコミからも宝石ブーム到来と呼ばれました。

 

当時は色々な宝石がありましたが、真珠は「輸出の王」と呼ばれるほど輸出用が多く、国内で販売されている物もほとんどは外国人観光客用で、国内需要は非常に少なかったです。

 

昭和39年の東京オリンピックの頃から宝石の大衆化が進んできて、装身具保有の動機が美しさやおしゃれから、財産保持や値が上がると言う理由が増えてきました。

 

宝石を買うことは貯金と同じだと言う説です。

 

これに対しては宝石の価値はやはり美しさだという反論もあります。

 

平成

 

現在のジュエリーは派手な物からシンプルな物までいろいろとそろっていて主にファッションや自己表現に利用されています。

 

日本はジュエリー不在の千年がありながら、アメリカについで世界第二位のジュエリー市場になっています。

 

結局、どこの国でもジュエリーは最初は極めて身近で素朴な素材を利用して作られることから始まり、素材と技術力が洗練されていき流行によってデザインや作り方は支配させていくと言う経緯は同じだと言うことが分かります。

 

 

ジュエリーの歴史
日本のジュエリーの歴史を説明します。

 

古代の装身具

 

装身具の消滅時代

 

装身具の復活(戦国時代から平成までの装身具の歴史)


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